聖書の励まし

 

 

 「ただ主のみ」 詩篇73:25.26

 

 

この聖書個所は、作者が、人生の様々な矛盾に悩み苦しみ、神の取り扱いに疑問を感じ、信仰が試みられる中で、ついに到達した「神こそが私の人生のすべての全てである」ということを、声高らかに告白し、神をほめたたえ礼拝している個所です。

私たちも神を知っている、信じているとは言いますが、果たしてどんな時にも、「神が私の人生の全ての全てである」と告白出来るでしょうか。詩篇の作者の証しに耳を傾け、そのことについてもう1度、自らの信仰を省み、新たな信仰生活のスタートとさせていただきましょう。彼はここで2つのことを力強く証ししています。

 

 この聖書個所は、作者が、人生の様々な矛盾に悩み苦しみ、神の取り扱いに疑問を感じ、信仰が試みられる中で、ついに到達した「神こそが私の人生のすべての全てである」ということを、声高らかに告白し、神をほめたたえ礼拝している個所です。

私たちも神を知っている、信じているとは言いますが、果たしてどんな時にも、「神が私の人生の全ての全てである」と告白出来るまでに至っていると言えるでしょうか。詩篇の作者の証しに耳を傾け、そのことについてもう1度、自らの信仰を省み、新たな信仰生活のスタートとさせていただきましょう。彼はここで2つのことを力強く証ししています。

 

Ⅰ.天にも地にも、望むべき方は神のみである(25節):

 25節:「天では、あなたのほかに、だれをもつことができましょうか。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」「望む」とは、「慕う」、「期待する」、「依り頼む」ということをも意味しています。

 この告白は、神が悪者を栄えさせ、正しい者を罰するように見える矛盾(Ⅰ-14節)を、自分の視点からだけ見て悩み苦しんでいた作者が、それを神の臨在の前で、神の視点から見た時に、目が開かれ、気づかされ、叫んだ告白です。→17節:「私は神の聖所に入り、ついに彼らの最後を悟った。」神は必ず悪を裁かれる義なる方である事を悟ったのです(18-20節)。

 彼は、「天では、あなたのほかに,“何を”、ではなく、“だれを”もつことができましょう」と言い、また、地上でも「あなたのほかに私は“だれをも”望みません」と言って、この世のどんな物や他の何ものよりも、神ご自身を慕い求め、神ご自身に望みを置き、依り頼む、と告白しているのです。事実、どんなに多くの物や富を持っていても、それらがどんなに輝かしく、美しいものであっても、それらは私たちの魂を満たすことは出来ません。私たちを造られた神のみが、私たちの心の叫びやその必要を知り、私たちを助け、その必要を満たし下さるのです。

また、作者は、自らの低い霊的状態から抜け出て、今や、最も大きな祝福は、実に、神を慕い求め、神と親しく交わり、神をより深く知り、その臨在の内にあることだと悟るに至ったのです。

詩篇42:1,2にもこのようにあります。「鹿が谷側の流れを慕いあえぐように、神よ。私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の魂は、神を、生ける神を求めて、渇いています。」この作者は、直接の神知識、直接の神体験を求めて叫んでいます。「私の魂は、“慕いあえぎ”、神、生ける神に“渇いている”。」と。それは、単なる観念としての神ではなく、生ける神ご自身としての神です。

私たちの神経験はどうでしょうか。私たちは、神に飢え渇いているでしょうか。私たちの魂は、神を慕いあえいでいるでしょうか。神の臨在を慕い求めているでしょうか。私たちの魂の最大の願いは、自らが、神の前にいて、神を知り、神を喜ぶことでしょうか。

この詩篇の作者は言いました。「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。ただ、あなたののみです!」私たちが天国において最も待ち望むことは何でしょうか。永遠の休息、問題や悩みからの解放、また、天的平安や喜び、愛する人々との再会などではないでしょうか。心配無用です。それらは天において全て用意されています。しかし、それらの何にも勝って、私たちが天において待ち望むべきは、神の御顔、キリストの御顔です。栄光に満ちた神のみ前に立つ。それは何という光栄に満ちた特権ではないでしょうか。私たちは言うべきです。「天では、キリストのほかに何も望みません。贖い主であるキリストに会い、その御顔を仰ぎ見ること、それだけで十分です。」と。

 また、作者は言いました。「地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」私たちもまた、彼と声を合わせて言うべきです。「キリストが全ての全てです。私が望むのはキリストのみです!」と。しかしそれは、家族や仕事はどうでもいい、ということではありません。それも神によって与えられたものですから、大事なもの、愛し、いつくしむべきものです。しかし、それらがキリストより優先されてはならないということです。キリストは私たちの罪のために身代わりとなって死なれ、永遠の滅びから救ってくださった救い主です。そして、今も、信じる私たちと共に歩み、私たちの歩みを日々導き、守り、支え、全ての必要を満たしてくださる生ける主です。このキリストに一切を委ね、このキリストによって生き、キリストのために生きる時、周りの環境や状況がどうであれ、それらによって左右されることなく、どんなことでも力強く、希望を持って乗り越えていくことができるのです。

 かってダイビングに失敗し、首から下が麻痺し、神を呪ったことのある女性ジョニーの証しを聞かれた方は多数いらっしゃるでしょう。彼女は、やがて、神の愛に気づかされ、彼女の人生を神に捧げ、口に絵筆をくわえて描いた絵をとおして、多くの人々を慰め励ましていました。私は米国で彼女の事務所を訪問したことがあります。ドアを開けると彼女は筆を置き、ゆっくりと車椅子を動かしてこちらに顔を向けたました。その時、私は「あっと」思わず声をあげそうになりました。その笑顔があまりにも美しく、まばゆく輝いていたからです。また、彼女が証しの中で語った、「キリストは私の全ての全てです!」と言う言葉にも圧倒されました。 人の目にはたいへん困難な人生に見えますが、神の臨在の中に、全てを委ねきって生きている人の姿に感動させられました。彼女は、まさに、キリストによって生かされている、キリストの生き証人でした。

 そのように私たちはどんなことがあっても、キリストを慕い求め、キリストに期待し、キリストにより頼んでいるでしょうか。キリストは私たちの全ての全てでしょうか。

Ⅱ.人生に完全な満足を与えてくれるのは神のみである(26節):

 「この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし、神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」

 「この身とこの心とは尽き果てましょう。」作者の体も神経も、困難に直面し相当に疲れ切っていたのでしょう。また、やがて、老いてそうなることを想定しているのでしょう。肉体が衰えると、心も衰えて行きます。心が衰えると、行動も、気力も衰えて行きます。しかし、作者は、「それもまたよいことである」と言うのです。「なぜなら、何が起ころうとも、昨日も今日も、とこしえまでも変わることのない神が、尚も、私の心の岩、力となって支えてくださるからである」と。(「岩」=堅固な土台。「私の分の土地」=私の全て・・と言う意味です。)

即ち、彼はこう言っているのです。

「私は知っています。私が神のうちに確信をもって憩うことのできる立場にいることを。例え、いのちの土台が私の下で揺れ動くように感じられる日がやってきても、神が私を支える岩であってくださると告白できます。神は動かされたり、動揺したりするはずがありません。ですから、私がどこにいようとも、何が起ころうとも、私の体の具合がどうであろうとも、また地上のものが過ぎ去っていく時でも、この岩である神が支えてくださるので、私は決して動かされません。神はとこしえに私の心の岩であり、力であり、私の分の土地、全ての全てだからです。」

 何と力強い証しでしょうか。これこそ、激しく揺れ動くこの時代にあって、私たちクリスチャンが生きて、見せて、語っていかなければならない証しです。あいまいで抽象的な神概念ではなく、このような確固たる神概念を持って、その上に自らの信仰を、また人生をしっかりと確立して行きたいものです。